コールとレスポンス

plus I'll see you there utmost definitely

あるひかり

いつまで滑ってるって?

 

(ある募集によせて)(2019.06.22少しだけ加筆修正)

 

  なんか、後光とか神様とか、そんなふわっとしたものに任せといていいんだろうか。わたしはマックを持って家を出た。卒論の時もマックで宇多田ヒカルの事書いたっけ、あれはひどかった。夜道、明るい街頭、コンビニの前でレジの人がしゃがみこんで煙草。書いたって読まれもしないだろう、私が書きたいだけなのでそれでいいと思う。久しぶりのお肉らしいお肉を頬張りながら、もしもそのひとたちが人事を尽くしていて、天命を待っているならたまらないなあと思った。困る。物事にはタイミングがあり、人の世には毛布を編む糸がその巡り合わせがあり、それは、今でなければだめなのだ。

 Twitterで出会った音楽好きと話すのは楽しかった。わたしは人生で一番救われない時期に培ったジャニオタの経験を生かし、人生で二番目の窮地のなかで観た韻シストのライブについて細かいレポートや感想を呟いた。出会えておめでとう、いてくれてありがとう、彼らの音楽はいつもそばにいることへの祝福に溢れていて、何かを愛する気持ちが自分の居場所だと教えた。20年続いたことなんて音楽を聴くくらいしかない、なんてつまらない人生だと思ってた、でも、それだけでよかったと思った。感想を韻シストMC・BASIさんがリツイートしてくださった。フォロワーが増えた。会いたいと言ってくれる人があって、友達ができ、窮地から救われた。韻シストファンにはTwitterに張り付いているようなひとは少ないらしかったので、自分の読みたいことを呟きつづけた。友達は増えた。リア充になったと思った。ファン友達と、ときには一人でも行く韻シストのブロックパーティ。煙で満ちた空気と纏わりつくアルコールの気配はもう怖いだけのものではなく、踊ったり声を上げたりすることもできるようになった。レスポンスはいつでも人間臭く、暖かく、その時そこにいる人全てのためのものだった。
 
 良くも悪くもそれで全部で、満たされてなかったなと今になって思う。

 フライヤーはその時にもらった。長岡亮介!と、なんか、知らん人だ。夜道でクラウチングスタートの体勢、おお、このおしゃれな感じ。最近の若者だ。長岡亮介とか、すごいなあ、と思い、その人たちを検索して「odd foot works」のトレイラーを観た。おお、このおしゃれな感じ、最近の若者だ、でも、ほんものだ、と思った。わたしはなんと遅れていたんだろう、このひとたちは来るぞ!


 当日券で「OSAKA INV.」に行った。長岡亮介が「オドフットを観に来るなんてセンスがいいですね」と笑っていたのを覚えている。ライブは素晴らしかった。こんなにポップで格好いいのになぜもっと売れていないんだろうJANUS規模で観れたのが奇跡なのであって日本を席巻するのに半年かからないのでは、と思った。前日に買った「odd foot works」を、すぐさまDLした「ODD FOOT WORKS」を聴きつづけた。世を拗ねたいときなど特に前者を聴いた。「賞を取る文才ガールが履いたピンヒールを必死によじ登る」。中原中也か?!インタビューを読んでそこそこ暗いテーマがあることを知っても、聴き終わると寂しくなることをわかっていても、それも含めて、ナイーブな美学というか、少し閉じた、でも最高にクールな、冷たいファンタジックな湖に浸った。そういうひとたちなんだなあ、これは、わたし、格好いいぞ、グフフ、と思っていた。特にTLでその名前を呼ぶことも聞くこともなかった。


 楽しみにしていた「GOKOH」をダウンロードして、でも、何をやっているかはわからなかった。ジャケットも怖いというかお世辞にも趣味がいいとは言えないしさすが最近の若者(しかも頭が良い)…。でも、繰り返し再生を止められなかった。一曲一曲が有線でかかるような曲より短いせいかと思ったけれど、何十周目かでそうではないことに気付き始めて怖くなった。何を言ってるかわからないけど、これは多分、宇宙に行ってしまったこのひとたちからの何らかのメッセージだ。


 ワンマンライブに行った。宇宙空間。ダウンタウンの声。若くておしゃれな最近の若者ばかりの、しかし一人のひともいるお客さんたち。長い階段。ライブは素晴らしかった。特に生ドラム、化学反応というか、暴力的な熱と情報量で後頭部を殴られ続けるようだった。CDで聴く音と比べてしまうとどうしても重たく感じる部分もあったけれど、それも含めてエモーショナルだったし、このアルバムにいくつかある2拍目の決めみたいなものが特に気持ちよく、縦横無尽に鮮やかなモーションを繰り出すペコリさんの合図を待つまでもなくわたしは好き放題踊った。


 (お客さんが叫ばない、わたしも声を出せない、大声を上げたいのに)


 グッズを買い、階段を降り、石段に佇んで次のライブ(心斎橋コンパス!)を申し込んで笑いながら、わたしは感想を呟いた。かなり鼻息荒く、オドフットさんはいいぞ、といったことと、お客さんがおとなしかったこと。例によってレポも少なく、代わりにインスタ映えする動画が多く上がっていて、いいねを押して何人かと繋がって、よかったですね、そうですね、と話した。

 帰りの新幹線、もはやドーピングかモルヒネを打つように聴き続ける「GOKOH」の、でも、輪郭はすこし明らかになっている。情報量が凄まじい。「private future」重力に抗って内臓がひっくり返るような展開、「jellyfish」の綿密に張り巡らされる科学式のようなベースと息が詰まって心臓が止まりそうなブリッジのバース(とサビでの気が触れてしまいそうな開放)、「HELAGI」に立ち上る音像と歌声の表現力、かと思えば「NEASE」のベースは朝のアスファルトの照り返しの中ご機嫌に千鳥足を踏んでいるかのようだし、「virtual dancer」では名実ともに「売り切れ」になって30代前後のファンを撃ち落とすし、「テレコになって」は(ライブパフォーマンスも含め)どこか性的で不穏で、とてもドッペルゲンガーに狙われてすこしふしぎ、という物語にはおさまらないのではと思わせる。
 フックが多すぎる。一度には受け取りきれない、だから聴き終えられない、聴き留める(そんな日本語はない)べきことが多すぎる。聴き取れたと思しきことを必死にツイッターに書き留める。検索する。わたししかいない。何でみんなゴコウの話してないの?「後光が足りない」の一文を言い訳に、恥ずかしさも忘れて、浮かされるように話し続けた。韻シストファンで聴いてくれる人が出てきた。「つづるさんの熱と圧がすごいので」。

 神戸でのライブを前に、ワンマンライブのレポが上がった。あの日のことがありありと蘇る、燃える岩石のようなーー「熱と圧」に満ちた!ーーレポートをドキドキしながら読んで、すっかり気が緩んだわたしはフォロワーに呼びかけた、ワー、みんな見て見て、同じ事書いてる!驚くべきことにレポを上げてくださった方(spincoaster野島さん!)がそれを目に留めて話しかけてくださり、続いて、「良いレポートができた時には必ず汲み取ってくれる人が現れる」とツイートなさったのを見た。わたしが「汲み取ってくれる人」になれたのか分からない。もしなれたのなら、彼と彼らの作品のたった一ミリでも担えたならと思い、涙が出た。


 涙は翌日止まった。ペコリさんが、聴き取れたと思しきリリックのメモをリツイートしてくださった。もはや驚くばかりで言葉がなかった。な、なぜ?どうやって??見つかった???元ジャニオタたるわたしはハッシュタグはもとより、「踊foot works」「pecori」とは一度も打っていないのに!


 答えは神戸でのライブの後、ご本人に直接(!)伺うことができた。ライブレポの件で、野島さんとリプライでお話しさせていただいているのを見かけてくださったのだそうだ。あと、「ちょっと間違ってたのも面白かった」から。まさか。そんなことが。緊張のあまりうまくお話しできず、最終的に「トモダチニススメマスbot」みたいになっていたわたしを疎みもせず、ペコリさんは話を繋いでくれて、何がか分からないけど、あ、やっぱり、と思った。同行してくれた韻シスト仲間とホテルで「シブヤノオト」を観て、オドフットさんはいいぞ、と散々、再三、呪いのように書き残して眠った。再生を止めることも、呟く恥ずかしさももう諦めていた。汲み取ってしまった。

 音楽を好きでも、ファン友達ができても、わたしはずっと悔しかったと思う。
 ファンの人からの、意図の読み取れないリツイートが苦手だった。わたしはだれかの「あるある」芸人ではないし、思い出代筆人でもないし、コレクションの一部でもない、コメントやリプライがあるならともかく、なんでリツイートだけで満足してしまうんだろう、なんでわざわざSNSに登録しておきながらじぶんを表すことを怠けるんだろう、と思っていた。「最高でしかない」とかそういうなんか横着な表現が苦手だった(なんかあるだろうよ?!)。その人にとって、何が、感動の対象だったのか、ということを書かないで「誰々さんが良かったですね」みたいな薄いんだか上から目線なんだかわからない感想を本当に苦手に思ったし、そういうひとは大抵「わたしはうまく表現できないから他の人の感想を見てそうそう!って思ってます」のようなことを言っているのだけどそれがまた歯がゆい。うまく表現できない、という、感覚がもう、まず、わからない。しろよ、そこはよお!頑張れよ!あなたの!言葉で!喋れよ!じゃないと音楽を聴いてることもったいないよ、なくたって生きていける芸術に敬意を払うなら、恩を返すのなら、だれかにつなげるしかないんだよ、そこでまた表現が生まれるんだよ、少なくともわたしにはそこだけが、息をしていられる場所だった。
 
 天邪鬼だけど本当は好かれたくて、気難しさを自覚しているけどそのままで仲良くなりたいから、めっちゃ工夫凝らす、見せませんが…、みたいな葛藤をオドフットさんの音に勝手に感じはじめて、他人事と思えなくなった。誰といても自分でいるためのドープネスとさわれない距離でそばにいるためのポピュラリティ、そのどっちもを欲張って、えげつない矛盾とめんどくさい貪欲をインテリジェンスとユーモアで包み隠して宇宙から全身全霊で手を振る。気まぐれに腹の中を明かすように、固有名詞ーーおそらくその人たちのリファレンスであろう人たちの名前!ーーをリリックに入れてみたり、インタビューで「早く出て欲しい」「聴いた人がどう思うか気になる」とおっしゃっていたり、感想用のタグがあったり、音楽を愛する人の誰もが彼らをすきになって、それを表現したくなるような、そこまでいって初めて完結するようなプラットフォームとしての音楽なんじゃないか?あのワンマンライブの背後、彗星の流れる宇宙は、後光のようでもあり、アリーナを埋め尽くすペンライトのようでもあり、だからわたしはもっと、この話したがっている音に返事を。音楽を愛するひとの眼差しを、そのひかりを、彼らに。なんとかして。エモーショナルなのが似合わないならなおさら。

 約束を守る。と思い、iTunesのリンクを貼り「シブヤノオト」のツイートをリツイートした、少しでもわたしをすきなひとはみんな聴いてください。思い入れのあるフォロワーさんが次々と「GOKOH」を聴いたと言ってくれた。動画を呟いてくれた人もいたし、他のEPも聴いてその感想をくれる人もいた。マックで泣いた。「頭がふわふわする」「懐深いけど最終めちゃポップなのがたまらない」「意外すぎる音の展開」、どれも、とてもよくわかるし、同じくらい、そのひとにしか綴れない言葉だと思った。

 

 約束を半分守れた、と思った。でもまだ途中。

 相変わらず韻シストのライブにも行っている。お客さんはアホほどうるさい。今時のおしゃれな若者と違ってTシャツに短パンだし、タバコくさいしお酒くさい。レスポンスは荒っぽくてうるさい。でも、好きな気持ちを表現するやり方を知っている。わたしもそうだ。怒涛のレポートをツイートする間、いつもは言葉少ないフォロワーさんが呼応するようにそのひとだけの感想を語り始める時、わたしは嬉しくて泣いている。
 本当はみんな好きなことを語りたいのだと信じるし、その一言目を担いたい。

 どうか、よろしくお願いします。